春望
漢詩と言えば、日本人には人気が高い杜甫の「春望」。
これもちょっと文句がある。Σ⊂( ̄□ ̄~j
國破れて 山河在り
城春にして 草木深し
時に感じて 花にも涙を濺ぎ
別れを恨んで 鳥にも心を驚かす
峰火 三月に連なり
家書 萬金に抵る
白頭掻いて 更に短かし
渾べて簪に 勝えざらんと欲す
冒頭の「國破れて 山河在り」、唐朝の崩壊と自然の変わらぬ姿を対比させて、”無常感”を詠んだとされている。
要は、松尾芭蕉の「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」と同じ表現方法。
つ-か、芭蕉が「奥の細道」で引用して、「国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠うち敷きて時の移るまで涙を落としはべりぬ」としたのが有名になった一因。
相まって、この”無常感”こそが、日本人に人気のある理由なんだと思うd( ̄▽ ̄)。
数々の解説も、ネットで調べても、”無常感”で落ち着いているけど、ホントかなぁ?
そうだとしたら、「城春にして 草木深し」のところで、「春」の字を当てるかなぁ。
「草木深し」と対比させるのなら、「城」にはもっと悲惨な出来事を当てるはず。
「春」の字は改まった様を表現している。
なので、ここは対比ではなくて、視点(捉え方)を変えて、自然に目をとめて見た、とするのが正解だと思う。
なので、冒頭の部分は、この様に解釈するべき。
「國破れて 山河在り」=狂乱の時が終わって、ふと目をとめると、こんなにも自然が溢れているじゃないか。
「城春にして 草木深し」=城(国の象徴)も改まって見てみると、なるほど緑がたくさんある。
電気を消すと星空がよく見えるのと同じ感じで、自然の美しさを際立たせる為の枕詞なのではないか?
「國破れて」は”終わってみれば”と、ふと我に返った気持ちを詠んでいると思う。
”無常感”よりも、若かった時代の終焉、”哀愁”や”黄昏”の方が強い。
それが終盤の「白頭掻いて 更に短かし」に繋がるんだよ。
例によって、オレ様的解釈*゚∀゚)ノで、ネットでもそんな解釈は無いんだけど、どうなのか?
漢詩の諸先生方、どうよ~!(¬∀¬)σ
実はみんな、芭蕉の解釈に合わせているだけじゃ~ね?(←若者風に)
自分の頭で考えようよ。
つーか、芭蕉の引用の方を解釈している?
芭蕉は自分の作品の”無常感”に合わせる為に、意図的に誤用して(と言うより、パスティーシュ?)詠んだだけだから~( ̄△ ̄)。
P.S.
飲料メーカーのサンガリアって、「國破れて 山河在り」から採ったんだってね(笑)。